目を覚ましたのは、既に全てが終わったあとだった。

水面へと引き上げられるような奇妙な浮遊感と共に目を覚ませば、見知らぬセカイと薬品の匂いが広がっている。視界をずらすためにゆっくりと捻った体からは、直前まで身体を支配していた意識を失うまでの激痛も吐き気も、その残滓すら残さず消え去っていて、ただやけに重く怠い身体の中から、何よりも大事なものが消失していると気付くのには、あまり時間は掛からなかった。

何の実感も湧かなかった。

麻酔という薬品に侵された思考回路はまだぼんやりと眠っていて、疲弊しきった精神も身体も、身体を起こすことすら拒否していた。何も無い天井を見上げてただ呆然と見、やがてそれすらも億劫になって目を瞑れば、眠る前の出来事と鋭い腹の痛みと、凄まじい吐き気が蘇ってくる。
思わず咽そうになって、けれどそれも出来ないまませめて吐き出してしまわないようにと息を止めた。
やけに重い手をそっと、自分の腹部へと乗せる。
・・・・何の反応もない。
判っていた。もういないのだ。
小さな小さな存在は、私から切り離されてしまっていた。
多分、もう姿を見ることも叶わない。
私には、その姿を見る勇気すらない。
生まれる前に死なせてしまった、名前も誕生日も持たない「あのコ」。
確かに此処で生きていたのに。
私の娘か、或いは息子だったのか、それすらも判らないほどに無力で哀れで、愛しい存在から、私は。

・・・・奪ったのだ。

殺したのだ。


私は、私を、私が・・・・・!!



「あのコ」は私に、絶望と痛みと吐き気しか与えなかったけれど。
私もきっと、「あのコ」に同じものしか与えられなかったのだろう。
どうして、もっと・・・・。
本当はいっぱいしてあげたかった。
一緒に買い物にいって、年に一度のいろんな行事を一緒に祝って、一緒に食事をして、一緒に眠って。
状況が許すなら、一人の人間として、この世界で一緒に暮らしたかった。
あのコをこの腕で抱き締める日を何度も夢見た。
でも、私達の辿る道が決して楽な舗装道路ではないことも、私にはそんな力がないことも、そしてそれがあのコにとっての幸福と呼べるかどうかすら定かではないことも、わかっていた。
たかが高校生一人の力で、一体どれほどのことが出来るというのだろう。
自分の身一つ、自分の力だけでは養えないというのに。
そんなことは判っていた。
それでも出来るならば、そんなことは無視してでも、私の中で脈打つもう一つの命がなによりもなによりも愛しくて、なによりも大切で、このコに外の景色を見せてあげたいと、顔を見て話がしたいと、そう思っていた。
でも、それは許されない。
私には、出来ない。

判って、いたことなのだ。


・・・・判っていないと、判るはずがないとも、言われた。
実に沢山の人に。
同じように苦しんで、同じような決断をした人もいた。
似たような境遇の知人を持ち、その人が最終的に自殺を図ったと話してくれた人もいた。
ただひたすらに叱り付ける人もいた。
自分で考えろと、冷たく払いのけた人もいた。
私の為に泣いてくれた人もいた。

自分がどうすべきかは、本当はとっくに決まっていて。
選択肢なんて無いようなものだと、何に対してなのか判らない怒りのようなものも持ったまま、けれど私はあのコを幸せに出来る自信なんてほとほと無かったから。

逃げるように、自分が楽な道を、選ぼうと・・・・・。


思っていた、のに。



どうして、こうなるのだろう。


自分の中で一つの命が潰えたことによる、もはや精神的なのか肉体的なのかも理解できない痛みと苦しみに、知らず涙が頬に流れた。なんて無様でみっともない姿だろう。
・・・どうしていいか判らなくなる。
身体は微塵も動かないのに、いくつもの感情が心の中で溢れて暴れ回る。
静かけさが満ち、柔風にカーテンがそよぐ部屋の中、体内で感情が爆発するアンバランスさに頭痛がした。

私は、何に対して怒っているのだろう。
アイツラ?
状況を許さない社会?
助けてくれない周囲?
手を伸ばさなかったのは私だというのに?
自業自得が招いた結果なのに?

私は、何に対して悲しんでいるのだろう。
自分という存在を蹂躙されたこと?
失ってしまったこと?
誰も理解してくれないこと?
・・・・死ななければ、堕ろすつもりだったのに?

私は、何に対して苦しんでいるのだろう。
もういないあのコを差し置いて、自分だけが目を覚ましてしまったこと?
先の見えないこれからのこと?
これから待ち受ける周囲からの冷遇について?

なんで私は生きているんだろう。
私だけが、生きているんだろう。
こんなことなら、あのコじゃなくて私がいなくなればよかったのに。
私に「これから」なんて、無ければいいのに。

一瞬でもそう思った自分が、殺したいほど憎たらしい。


三ヶ月前に私が犯した失態は、これほどまでに重い罪だったのだろうか。
大好きな人達に贈り物をしたかっただけだったのに。
ああ、ならば別の日にしておけば良かった。
せめてもう少しだけ早く帰って入れば良かった。
あの時、あの道を渡らなければ良かった。
あの信号機を無視していれば良かった。
あの時、あの時、あの時、あの時・・・・!!

後悔する場所は限りなく多くて、やがて考えることにすら疲れてしまう。
人間は、考えることをやめたらそこで終わりだと、昔誰かに説いて頂いた記憶があった。
どこか偉人の言葉の引用だったのか、はたまたその人自身の言葉だったのかは忘れたけれど。


最初から堕ろすつもりだった「子」が死んでしまったことに、どうしてこんなにも揺さぶられるのだろう。
どうしてこんなに悲しいんだろう。
所詮自業自得の塊だ。どこにもぶつけられない、やるせない感情が渦巻いても、ただしゃくりあげるしかできない、私は無力で幼稚な存在だった。失ってしまったあのコ以上に。



これから、きっと辛くて苦しくて悲しい毎日が続くだろう。
自分の一番近しい人達による、きっと冷たくて辛辣な言葉と対応が待っている。

差し伸べたら誰か一人でも、私の手を取ってくれるだろうか。





手を伸ばすことすら、もはや恐怖そのものだけれど。










「帰ったら、いっぱい、謝らなきゃ、だな・・・・」








―――19日の火曜日の夜、窓際の机に置かれた携帯が、静かに憶えのある曲を奏でた。





懺 悔



どれだけ悔やんだって、もう遅い。







メール来て心の底から救われました。

同じ苦しみを知っている、親愛なる全ての皆様に捧ぐ。

2008 . 5 . 6

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