・・・・・・・・・冷たい。

闇の中で、「それ」は月の光を受けてギラリと妖しく輝いた。



もう慣れたことだけど、やはり最初の一瞬だけは躊躇する。

悩むくらいなら止めてしまえばいいのに、意を決して軽く引く。




「・・・・・・・・・っ」




じわりと赤い血が滲み、腕を伝って落ちていく。















もう、戻れない所まで来てしまったのかもしれない。










          闇血










――――――カランッ!



手に持っていたはずの「それ」・・・・・・鈍い輝きを放つ剃刀は、突如視界から消え失せた。振り返る前に視界が反転する。ゆっくりと見上げれば、やや息を乱した銀髪の男性が、私の両腕を掴んで絨毯上に押し倒していた。


「止めろ、と言っただろう。」


さらり、と男にしては長くしなやか過ぎる髪が頬に触れる。
仕事に追われる彼が、同じく仕事に追われる生徒にこれほど構ってくれるのは、私が彼にとって特別であるからなのだと信じたい。――――――――そんなこと、決して言ってはやらないけれど。

抑えられた左手首から、まだ止まらぬ血が流れつづける。
それは当然、その手首を押さえつけている彼の白い手にも付着した。


「・・・・・・・・ナイトメア、離して。手が汚れるわ。」

そう言って身を起こそうとするが、ナイトメアは更に強く抑え付けてくるだけだった。


「ナイトメア」

再度彼の名を呼ぶ。
今度は少しだけ強く。
他の生徒や医師に対しては絶対的な権力と能力を持っている彼だけれど、私とてこの頽廃の街の中では彼とほぼ同等の地位にいる。勿論ナイトメアが私の教師であり、保護者的存在なのは否めないが。

「仕事に支障は無いわ。薄く傷が残るだけ。」
「それが嫌だと言っているんだ」
「今日は随分私に構ってくれるのね」



ズキズキ。
頭の芯が痺れるように痛い。

普通の人間ならもうとっくに死んでいるのだろう。
ナイトメアに触れ、こんな至近距離で会話ができるのは私だけ。
けれど私にだって限界はある。

ヴェノムに慣らされたこの身体だけど、ナイトメアの持つ毒はトキシン・・・・・・植物毒なのだから、種類の差もあってか、やはり長続きはしない。彼岸花に侵された彼の身体は、吐息ひとつで他の動物の命を奪えるほどに強い猛毒を持ってしまった。


「う・・・・・・・・。」


車に酔ったような感覚。
頭が痛い。
じわじわと毒が回ってきている。
普段のナイトメアなら、極力私が毒に触れないようにと細心の注意を払っているのに、今は逆に少しずつ毒を回している。

ナイトメアが何を考えているのかくらいは想像がつく。


―――――――段々身体に力が入らなくなってきた。




「やめ・・・・・・・ナイト・・・・ア・・・・。」

目に見えない毒が、ナイトメアを伝ってゆっくりと体内に侵入し、神経を蝕んでいく。

「しばらく寝ていろ。」
「駄目・・・・・・離し・・・・・・・・」


もはや抵抗どころか、指一本すら動かせない。
それでも意識だけは保とうと必死になる。
霞んでいく視界の中、ナイトメアがゆっくりと離れていくのが見えた。


「・・・・・強情な女だ。これ以上はお前の生命に関わるから出来ないが・・・・・・少しは大人しくなるだろう」



ナイトメアは換気をしようと窓を開ける。
しかし自分が風上にいたのでは意味がない。ナイトメアは静かに少女・・・・クオンの風下に座った。

ナイトメアが離れても、毒は一向に抜ける気配が無い。

「2、3日休めば毒も消える。」
「・・・・・・・・・・・ない・・・め・・・」


焦点の定まらない目で、うわごとのように呟く。
ナイトメアは「悪かった」と小さく応え、静かに部屋から出て行った。









 + + +







――――――――――あぁ、貴方は本当に狡い人だ。

行かないで、と私が手を伸ばせないように、こうやって動けなくしてから行ってしまう。
そうして、只でさえ忙しいのに、私の代わりに仕事をしてくるのでしょう?

お互い思っていることは同じ。


相手に辛い思いをさせたくない。
少しでも心休まる時を作りたい。


けれど、私ばっかりいつも無理に休まされ、貴方はいつも働いてばかり。



「・・・・・・・・馬鹿な人・・・・・・」




まだ気分の優れない身体を無理に起こして、上着を羽織る。
結局意識を手放して、3日も眠ってしまっていた。


「お互い、落ちる所まで落ちてしまったのかも・・・・・・しれないわね」




もう、戻れない。
帰ってくる彼の銀の髪に、あまり血が付いていないことを祈りながら。



クオンは静かに、裏庭の彼岸花に水をやった。





Fin...
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