「・・・・・・風船を貰ったの」




ジジジ・・・・と古びたランプが蟲の羽ばたきに酷似した音を放つ仄暗い部屋の中で、女性は唐突に場の静寂を破った。古い木製の窓枠に腰掛け、その膝に頭を乗せて昏々と眠りにつくソナタの寝顔を見つめたまま、ぽつりと言葉を落としたカノンに、しかしフェーネラルもノクターンも何も言わず、揺れるランプの炎に照らされながら続く言葉を待った。


「きっと、他の人から見たら大したことのない、ワンコインで沢山手に入るようなつまらない風船だったの」

カノンは顔を上げない。
無意識なのだろうか、左手はずっとソナタの頬を優しく撫でている。
機械的なまでに同じ動作をずっと繰り返しているのに、それは慈悲に溢れた聖母の姿にさえ見えた。
・・・・・何が違うというのだろう。
ロボットにだって、同じことはできるのに。
どうしてこんなにも違うのだろう。


「お父様とお母様と三人でね、近所の公園に行ったの。・・・そこもどうってことはない、歩いてすぐのところでね、特に珍しくもなければ楽しくもない、見慣れたいつもの公園だったわ」


二人が聞いているのかどうかは判らない、けれどもそんなことは気にせずカノンは言葉を落としていく。
自分の中に湧き上がる想いを、閉じ込めた過去を、そっと両手に掬い取って流していく。

「でもね、何でだったかしら・・・。やっぱり大したことはなかったはずなのだけれど・・・何かのキャンペーンだったかしら?とても大きなお兄さん・・・・と言っても、きっと今の私達と然程変わらなかったのでしょうけれど、当時の私にはまるで恐竜のように大きく見えたの。そんな男の人がね、色とりどりの風船を両手に持って、道行く人へと配っていたの」

フェーネラルもノクターンも答えない。
ただ黙って、カノンの言葉に耳を傾けていた。

・・・・ランプの炎が揺れる。

ゆらゆら、ゆらゆら。


「見ていたらね、私もその風船がとっても欲しくなったの。その直前まで、『風船』なんて存在、頭の片隅にもなかったのに・・・・それを見たら本当、どうしようもなく欲しくなっちゃったのよね。風船なんて貰って帰っても、どうせ使い道なんてないのに、やっぱり子供だったんだわ。そんな理屈はどうでも良くって、ただただその風船が欲しかったの」


カノンが言葉を切るたび、ランプの音と小さな寝息が耳に届く。
心地のいい静寂が部屋を満たして、狭い小部屋の中央に置かれた小机の上でどっしりとランプが構える。
その中の蝋燭が頼りなくゆれるたび、3人の長い影が部屋の壁でゆらゆらと揺れた。

「風船はとても欲しいの。だけど、配っている男の人には怖くて近寄れないの。本当に子供だったわ・・・。風船が欲しいならお兄さんの傍に行くしかないし、それが嫌なら諦めるしかないのに、私ったらとても我侭でね・・・。どうしても近寄りたくないのに、どうしても欲しいの。絶対に風船を諦められないのに、絶対に近寄りたくないの。とんでもない我侭だわ・・・」

ふふっ、と微かに笑い声が漏れる。
けれどそれは自嘲的なそれではなく、とても暖かくて柔らかい笑い声だった。

「そうこうしているうちに、段々お兄さんの持つ風船も少なくなってきてしまってね、内心はとても焦るんだけれど、やっぱり怖くて怖くてどうしようもないのよ。休日の昼で、家族連れの人も多かったわ。当時の私のように幼い子供たちが笑顔でお兄さんから風船を受け取るのに比例して・・・当然だけれど、風船はどんどん無くなって・・・ついに、お兄さんの両手に握られていた風船は一つも無くなってしまったの」

白い手が、ゆっくりとソナタの髪を撫でていく。
慈しむように、そっと。

「無くなるまで見ていることしかしなかったくせに、もう風船が貰えないと判った途端、みっともなく泣き出しちゃったのだけれどね・・・・、お父様もお母様も何事かと驚いて、怪我したの?どこか痛いの?って聞いてくるのだけれど、私は答えられずにただ泣き喚くの。今思うとお父様達にも申し訳なくて恥ずかしい話だわ。・・・そんな私に気付いていたのか、さっきまで風船を配っていたそのお兄さんが、ふと私の傍まで歩いてきてしゃがみこむと、大きなズボンのポケットからピンクの風船を取り出して、目の前で膨らまして・・・・私にくれたの。風船を貰えたら、さっきまで怖かったことなんか忘れてしまって、凄く喜んで風船を貰って帰ったことだけ憶えているわ・・・・」

それだけよ、と呟いて、カノンは思い出話を締め括った。
暫しの静寂ののち、さらりと銀の髪を後ろへ流して、じっと聞き入っていたフェーネラルが口を開く。

「・・・・幸せ、だったんだね」

呟く言葉はどこか歪んだ響きを含んでいて、それに気付いたノクターンも口を開きかけたが、それよりもカノンの返答の方が幾許か早かった。

「ええ、幸せよ。今もずっと」

フェーネラルが過去形で紡いだ言葉を、確かな強さと自信を持って訂正する。
一瞬だけフェーネラルは戸惑ってみせ、しかし数秒後にはくすくすと笑いを噛み殺していた。

「ああ全く・・・君には敵わないよ、カノン」
「お褒めに預かり光栄ですわ」

おどけてそう答えてみせれば、噛み殺した笑い声が二人分に増えて反響する。
一通り笑い終えたのを見て、最後にほんの少しだけ、複雑でセンチメタルな想いを孕んだ問いを投げかけた。


ランプの炎が頼りなく揺れる。

ゆらゆら・・・ゆらゆら・・・。

影もつられて揺れる。

ゆらゆら・・・ゆらゆら・・・。



「悲劇の少女でもなければ、勇敢な勇者の話でもない。どこにでもある、つまらない思い出話でしょう?
 でもね、何故だかとっても懐かしくて、思い出すたびに涙が出そうになるのよ。何故かしら・・・・」

「・・・・外の世界に戻りたいと思うなら、いつだって戻っていい。扉なら俺が開けてやる」

問いには答えず、ノクターンはそれだけを優しくカノンに届けた。

「でも・・・貴方達は、一緒には来てくれないのね・・・?」
「・・・・ごめんね、カノン」

微かな希望を持って尋ねても、それは優しく優しく掻き消されてしまう。

・・・そっと背中を押してくれる、温かい手。
でもその手を握って共に歩ける時間は、もう残り少ない。



――――ゆらゆら、ゆらゆら。




心の中で揺れる想いは、まるでこの蝋燭のように頼りなく微力だ。
それでも、その炎を消さないように。



燃えすぎないよう、消えないよう、誰にも知られないように燻らせて。










色褪せていく

オルゴールの音色




かつてはあんなにも美しく鮮やかに鳴り響いていたはずなのに







自分の原点に戻って、ノンフィクションをアレンジしての創作短編。
こういう気分になる時ってありませんか?

2008 . 2 . 26

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